コルネリス(インドネシア語: Cornelis, 1953年7月27日 - )は、インドネシアの政治家。第8代西カリマンタン州知事、ランダック県知事を務めた。

経歴

1953年7月27日にインドネシア、サンガウ県にてヨセップ・ロフィヌス・ジャミンとマリア・クリスティナ・ウコの息子として誕生する。父が警察官であったため、コルネリスの幼少期は各地を転々として過ごした。中学卒業後、ポンティアナックで教育を受ける。当初はサントゥ・ペトルス高校に通っていたが、経済的な制約から学費の安いカプアス高校に移った。

1972年に高校を卒業後、国内行政アカデミーで高等教育を受ける。1978年に国内行政アカデミーでの教育を修了した後、コルネリスは公務員としてのキャリアを追求し、村レベルの職員としてスタートした。

やがてコルネリスの公務員としてのキャリアは上昇し、1989年から1995年にかけてはメンジャリン小区長、1995年から1999年にかけてはメニュケ小区長を歴任した。1999年、コルネリスは州レベルの役職、すなわち鉱業・エネルギー局の監督サブサービス長を任された。2001年、ブラウィジャヤ大学で法学修士号を取得。

2001年7月19日、地方議会による選挙により、コルネリスはニコデマス・ネヘンを代理としてランダック県知事に選出され、2001年9月6日にウスマン・ジャファル知事により正式に就任した。

県知事時代、コルネリスはインフラ整備、特に道路整備に力を入れた。小地区を結ぶ道路は舗装され、照明が設置された。コルネリスはまた、ランダック県知事に通信塔を建設するよう電気通信会社を招き、携帯電話の電波が地区内に届くようにした。県知事時代の最も驚異的な開発は、西カリマンタン州で最も壮大な県知事の事務所と言われ、西カリマンタン州知事の事務所と同等とさえ考えられているランダック県知事のオフィスビルであった。

県知事在任中、コルネリスは闘争民主党と連携した。当時の法律では、県知事は大衆組織や政党の顧問となることが義務付けられていたため、県知事としての立場から、コルネリスはランダック県知事の闘争民主党DPCの顧問となった。コルネリスは闘争民主党との親密さから闘争民主党幹部として参加し、その後2003年12月に西カリマンタン州闘争民主党地方代表議会議長に選出された。

2006年、コルネリスはランダック県知事選挙に勝利し、今度はアドリアヌス・アシア・シドットとペアを組んだ。しかし、2007年に知事選挙に勝利し、2008年1月に西カリマンタン州知事に就任したため、2期目のコルネリスは1年しか務まらなかった。

2007年11月の選挙では、クリスティアンディ・サンジャヤとペアを組んだコルネリスが、現職のウスマン・ジャファルやラウレンティウス・ヘルマン・カディルを含む他の3組の候補者を抑え、43.7%の得票率で当選した。両者は2008年1月14日にマルディヤント内務大臣によって就任した。

2期目に向けて、コルネリスとクリスティアンディ・サンジャヤはペアのまま、2012年西カリマンタン州知事選挙で再選された。この時、2人は闘争民主党、民主党、福祉平和党、新インドネシア民族主権党、民族覚醒党の連合に担がれ、他の3組の候補者を抑えて52.1%の得票率で当選した。2013年1月14日、ガマワン・ファウジ内務大臣により2期目の就任式が行われた。

脚注


イギリス警察御用達のホイッスル。 corne/コルネ

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