白木 一二(しらき かずじ、1915年11月3日 - 1944年?)は、兵庫県出身のプロ野球選手(外野手)。
来歴・人物
滝川中学校(現:滝川中学校・高等学校)、國學院大學(中退)を経て、1937年春、名古屋軍に入団。身長182cm、体重71kgという当時としては非常に大柄で恵まれた体格を活かし、シュアな打撃でチームを引っ張った。3番打者の大沢清の後ろで、4番打者を任された(中日ドラゴンズ史上8代目の4番打者でもある)。入団初年度の1937年春季シーズンでは、チームトップタイ(小島茂男と並ぶ)の27打点をマーク。戦前の投高打低の状況下で、一度もシーズン打率2割を下回った事がなかった。また選球眼も良く、四球の数が三振を上回っていた。守備も、強肩として定評があった。
1939年シーズン開幕前に応召。その後、戦死した(1944年に亡くなったと言われているが、正確な没年日時・死没場所は不明)。数え30歳没。
東京ドーム敷地内にある、鎮魂の碑には彼の名が刻まれている。
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 21 (1937年)
- 5 (1938年)
脚注
関連項目
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 國學院大學の人物一覧
外部リンク
- 個人年度別成績 白木一二 - NPB.jp 日本野球機構



