大須賀 応(おおすか ことを、1894年(明治27年)1月25日 - 1945年(昭和20年)3月26日(異説あり。本文参照))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
北海道札幌郡琴似村大字篠路村(現・札幌市北区屯田)出身。陸軍屯田兵軍曹・大須賀忠夫の子として生まれる。札幌中学を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。
1937年(昭和12年)12月、第16師団参謀として南京攻略戦に参加。1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第22連隊長に就任。武漢作戦に参加。1940年(昭和15年)8月、第116師団参謀長に転任し、安慶での警備に当った。1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
1942年(昭和17年)3月、基隆要塞司令官に就任。1944年(昭和19年)2月、父島要塞司令官に転じた。同年5月、混成第2旅団長、同年12月、第109師団司令部付となる。硫黄島の戦いに参戦し、1945年(昭和20年)3月26日、最後の総攻撃で戦死。陸軍中将に特進した。
死亡年月日については異説もあり、当時硫黄島参謀として父島に在勤していた堀江芳孝元陸軍少佐は、「大須賀少将は1945年3月26日の総攻撃には参加せず、入院先の野戦病院で戦死したらしい」と述懐している。
親族
- 弟 大須賀実(陸軍大佐)
脚注
注釈
出典
参考文献
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 『屯田部落七十年史』屯田自治会、1959年




